連載
ビジネスマンたちよ、ワイルドサイドを歩け

水道橋博士、星をたくさん見つけること、その星々が「人生の出口」になる Vol.3

人生の岐路で思い悩んでいる30~40代のビジネスマンたちに“追い風”を与える連載企画──今回ご登場いただいたのは、今なおインディペンデンスなスタンスでお笑い界に一石を投じ続ける漫才コンビ『浅草キッド』の水道橋博士さん。

 

「漫才師」という肩書きを起点に、ライターとしても幅広いメディアで執筆を行う、溢れんばかりの創作意欲の持ち主である水道橋博士の“本音”を、「師匠」「結婚」「子育て」をメインテーマとした連載3回にわたって、たっぷりと紹介する!

 

>>【第1回】水道橋博士の師匠論

>>【第2回】水道橋博士の結婚論

 

写真:佐坂和也  文:山田ゴメス

水道橋博士

浅草キッド

水道橋博士

漫才師。1962年8月岡山県倉敷市生まれ。ビートたけしに憧れ上京するも、進学した明治大学を4日で中退。弟子入り後、「浅草フランス座」での住み込み生活を経て、1987年に玉袋筋太郎と漫才コンビ「浅草キッド」を結成。1990年のテレビ朝日『ザ・テレビ演芸』で10週連続勝ち抜き、1992年テレビ東京『浅草橋ヤング洋品店』で人気を博す。文筆・俳優・コメンテーターと多彩な顔を持ち、その深い見識と行動力は芸能界にとどまらず、守備範囲はスポーツ界、政界、財界にまでおよぶ。『藝人春秋』(文藝春秋社)、『キッドのもと』(筑摩書房)ほか、著書多数。

41歳となる年に結婚を踏みきり、「人が変わりましたね!」と周囲を驚かせた水道橋博士。しかし、公私にわたる生活スタイルの変化は、2003年8月に子どもが産まれたことをきっかけに、さらに拍車がかかったと言う。

 

「最高だったね、電撃的だった。産まれたばかりの子どもを目の当たりにした瞬間は。どうせ人間、死への一方通行なんでね。みうらじゅんさんとリリー・フランキーさんの対談本じゃないけど『どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか』的な、もう人生の第3コーナーを意識するころだから、そのときに、やっとバトンを渡す相手ができたというか……。

 

決して大袈裟じゃなくて、ボクの場合は思春期から続く『自分のクソみたいな生き方が許せない!』『自分こそ死ねばいい!』って気持ちが断ち切れた。『もう自殺を考えなくても良い』って感じなんだ。生き続ける確信を得た気分だった。『ミーニング・オブ・ライフ』のようなものがガーンと押し寄せてきて、自分という存在を心の底から肯定できた。

 

山田風太郎の『人間臨終図巻』の影響だろうけど、若い頃から、突然、人は死んでいなくなると思っているし、自分でもそれを選べるって思っていたの。だけど、子どもが産まれてからは、それがなくなった。

 

芸人らしい『明日、死んでもいい』みたいな刹那的生活を一切やめた。浮気はおろか、飲みに行くことも皆無で、家に直帰する毎日……。孫の顔が見たいとも思うようになり、健康追求にも目覚めた。

 

『やわらかい顔つきになりましたね』とか『子どもの話が出るだけで表情が全然違う』と、人から言われるようになったのもこのころ。それも子どものおかげ。

 

部屋の色彩や風景もガラッと変わっちゃった。部屋中に赤・青・黄色といった原色のモノが急に増えちゃって……(笑)。よく北欧風のおもちゃで子ども部屋を揃えるとかってあるじゃん。あんなの嘘だよ。与えなくても子どもってアンパンマン好きだもん。だから声優の戸田恵子さんに会ったとき、『子どもが生まれて、改めてアンパンマンの凄さを思い知りました』って言ったもの。

 

さらに娘(第二子)が産まれてからは、これまで男社会(スポ根やサブカル)の世界で生きてきて、まったく頭にインプットされていなかった“カワイイ”という概念の扉が、パッと開かれた。つい最近までもショートケーキを毎日娘に買ってきて、それを食べているところを毎日写真に撮る……なんてことを2週間近くやっていた。

 

『もうパパ! 私を太らせる気?』と叱られて、しょうがなくやめちゃったけど、無条件に愛せるの(笑)。『苦労は買ってでもしろ!』って、息子には思うけど、娘には一切そんなこと思わないよ。

 

かっこ悪いかもしれないけど、早川義夫的に『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』で言えば、親バカって、最初っからバカで、かっこ悪いからね。そこが逆転して肯定できるようになるんだよ」

 

>>水道橋博士の子育て三大主義から滲み出る「理想の生き様」

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