連載
ビジネスマンたちよ、ワイルドサイドを歩け

水道橋博士、星をたくさん見つけること、その星々が「人生の出口」になる Vol.1

人生の岐路で思い悩んでいる30~40代のビジネスマンたちに“追い風”を与える連載企画──今回ご登場いただいたのは、今なおインディペンデンスなスタンスでお笑い界に一石を投じ続ける漫才コンビ「浅草キッド」の水道橋博士。

 

「漫才師」という肩書きを起点に、ライターとしても幅広いメディアで執筆を行う、溢れんばかりの創作意欲を持つ水道橋博士の“本音”を「師匠」「結婚」「子育て」をテーマに、3回にわたってたっぷりと紹介しよう。

 

写真:佐坂和也 文:山田ゴメス

水道橋博士

浅草キッド

水道橋博士

漫才師。1962年8月岡山県倉敷市生まれ。ビートたけしに憧れ上京するも、進学した明治大学を4日で中退。弟子入り後、「浅草フランス座」での住み込み生活を経て、1987年に玉袋筋太郎と漫才コンビ「浅草キッド」を結成。1990年のテレビ朝日『ザ・テレビ演芸』で10週連続勝ち抜き、1992年テレビ東京『浅草橋ヤング洋品店』で人気を博す。文筆・俳優・コメンテーターと多彩な顔を持ち、その深い見識と行動力は芸能界にとどまらず、守備範囲はスポーツ界、政界、財界にまでおよぶ。『藝人春秋』(文藝春秋社)、『キッドのもと』(筑摩書房)ほか、著書多数。

岡山県の紙問屋という裕福な家庭に次男として生まれ、小学生のころは「末は博士か大臣か」とまで噂される優等生だったという水道橋博士。県下指折りの進学校・岡山大学教育学部附属中学校に入学したまでは順風満帆だったものの、まわりは“もっとすごい優等生”ばかり。そこから「末の博士」の挫折は始まる……。

エリートコースからは外れ、地元の公立高校にどうにか進学できたが、「集団行動のできない性格」は加速し、今で言う「引きこもり」の毎日に……過敏性大腸症候群も患って、高校1年生で留年が決定してしまう。

そんな“うだつの上がらない少年”だった水道橋博士は、ビートたけしの『オールナイトニッポン』を聴いて、ようやく“出口”を見出し、ビートたけしに弟子入りするため、ビートたけしも通った明治大学に入学。しかし、大学生活に馴染めず、4日で中退。その後4年間はパチンコとアルバイトに明け暮れる。

「自分はなんのために上京したんだろう?」と自分自身を散々問い詰めた挙げ句、ようやく腹をくくったのが23歳の夏。1985年の8月29日から7カ月間、憧れ続けてきたビートたけしの、いわゆる「出待ち」を行った。

 

「拾ってもらえてなかったら、あそこで人生は終わってたね。ネトウヨに『ビートたけしに拾われてなかったら、水道橋はホームレスみたいになっていた』なんて書かれたこともあったけど、そういう“終わり方”とはちょっと違う。俺の実家は裕福だったので『たぶん親から仕事も家も与えられ、一日中ネットに張り付いて、あなたみたいなことをしていると思いますよ』とリアクションしておいた(笑)。

 

出待ち時代の7カ月間に関してだけは、自分のことを褒めてやりたい。

 

当時、殿(=ビートたけし)とたけし軍団の一行は、毎週木曜日『オールナイトニッポン』出演後、四谷にあった焼肉屋の『羅生門』で打ち上げをするのが恒例だったの。俺ら“出待ち組”は酒宴が終わる早朝の6時や7時まで、ただひたすら店の前で立ち尽くし、一行が店から出てきたときに『お疲れさまです!』と挨拶するだけ……それだけの繰り返し。

 

希望より不安でいっぱいだった。だって、いつこの状況が終わるかなんて全然分からなかったし……。最初は50人近くいた“弟子志願者”も、一人二人ってどんどん減っていくのよ」

 

――「たけし軍団を乗せるバスは、もはや定員オーバーだ」「いつまで乗り遅れたバスを待ち続けるつもりなんだ」……と毎週毎週、不毛な自問自答を繰り返す水道橋博士の“弟子入り”は突如として実現することになる。

 

>>水道橋博士がたけし軍団に入団した運命的なきっかけとは

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