連載
名刺を捨てた男◆第19回

そんな人生も「あるよ」!田中要次の人生の転機にいつも「事故」がある

一体、サラリーマンとはなんなのか。かつて会社勤めをしていた著名人たちが会社員時代を語る――。“名刺を捨てた男たち” は当時、何を考えながら働いていたのか。仕事へのモチベーション、プライベートとの比重、そして夢への挑戦……。

 

ひとつだけ言えるのは、全身全霊でその職務に取り組み、中途半端な仕事はしなかった。そして、その経験が活きているからこそ、彼らの「今」がある。その核心にせまるべく、「For M」編集部は“名刺を捨てた男たち”に単独インタビューを敢行した。

 

● ● ●

 

本連載19回目となる今回は俳優・田中要次が登場。きりっとした眉の下に眼光鋭い目。かっこいいのか人相が悪いのかよく分からない風貌が、個性派俳優として異彩を放つ。

 

元・鉄道マンだったというが、8年8ヵ月8日勤めていた安定企業を辞め、なぜ、映画界入りしたのだろうか。そして田中は、人生の転機には必ず事故を起こしたという。個性派俳優の個性的な人生の軌跡――。

 

撮影:山田英博 文:宗像陽子

田中要次

俳優

田中要次

1963年、長野県生まれ。長野県木曽山林高校(現・木曽青峰高校)林業科卒業後、国鉄長野鉄道管理局に就職(のちにJR東海へ)。保線職員として中央西線、東海道本線の各所に勤務。8年8ヵ月8日在職ののち退職。上京し、映画撮影現場のスタッフを経て、俳優となる。2001年、ドラマ『HERO』のバーテンダー役でブレイク。2017年8月19日には自身初となる主演映画『蠱毒(こどく) ミートボールマシン』が劇場公開予定。9月30日には監督を務めたオムニバス映画『LOCO DD 日本全国どこでもアイドル』が公開予定。映画人からは「BoBA」の愛称で親しまれている。

画像:田中要次

■俳優デビューはほろにが。最年少で陪審員長!?

 

田中の俳優人生において舞台デビューは、高校時代の文化祭だという。「ああ、昔から俳優志望で、志は高かったのだな……」と思いきや、そういうわけでもないらしい。

 

ほとんどが男子ばかりの高校(当時は木曽山林高等学校)にあって、わずかな女子がいる部を求めて演劇部に入部したというから、いささか不純な動機だ。その初舞台は、それほど華々しいものではなかったようだ。

 

「演目は『十二人の怒れる男』をベースにした裁判の陪審員劇。人数が少なく、6〜7人でやりました。高校1年生で自分が一番若いのに、一番年上の陪審員長の役をもらったんですよ。陪審員ということがそもそもよく分からないし、観客のヤンキーのような学生たちからは『ツマんねぇ!意味分かんねぇ!』なんてひどいヤジばかり。自分でも楽しめてなかったし、すっかり演劇なんてイヤになってしまいましたよ」

 

なかなかほろ苦い思い出だったようだ。

 

画像:田中要次

■進学も適当。就職もなんとなく

 

田中の出身は長野県。年の離れた長男の兄は自由人で、田中が幼少のときに家を出ていき、たまに借金とともに帰ってくるような人だった。そのため、次男でありながら長男扱いだった田中は地元で就職し、家を守るという宿命を負わされていた。

 

「あんたは地元で就職するんだよ」

「この家を守るんだよ」

 

親族に言われて、「そういう運命なんだ」と反抗することもなく唯々諾々と従いつつも、いつの間にか自分の運命を、どこか兄や親のせいにして諦めているような少年だった。

 

高校は林業高校。普通校と実業校の違いすら理解しておらず、そこで林業を習うことすら把握していなかった。国鉄に就職したのも、鉄道が特に好きだったわけでもない。

 

「地元就職のために公務員試験をいくつか受けて、通ったのは国鉄だけですよ。いまだになんで受かったのか分からない」と笑う。

 

18歳で「国鉄長野鉄道管理局」(のちにJR東海へ配属)に就職。塩尻保線支区(現・上諏訪保線技術センター)に配属され、鉄道の安全を保つために巡回点検や軌道修正、レール・枕木の交換などの線路保守管理「保線」に携わる。

 

当時の国鉄は、民営化を前にして世間から「職員は働かない、態度がわるい」と風評されていた。確かに仕事に追われることはなく、現場から帰ってきてシャワーを浴び、漫画を読んで定時で帰れるほど時間的にゆとりもあった。

 

しかし、残念ながら田中は仕事に対して情熱や目標などはなかった。強いて言えば「出来ればヘルメットを脱ぎたい」という気持ちがあった程度だろうか。「一生、ここにいるしかない」という諦めが、田中を虚無的にしていたのだろう。

 

 

 

≫≫≫夢の撮影現場でシンデレラ・田中要次!?

画像:スマートフォンはそのまま“下”へスクロール

TOP