連載
名刺を捨てた男 #013 お笑い芸人・肥後克広 03/04

リーダーに選ばれたのは「ただ背が高かったから」

■ 究極の飽き性、極まれり

 

約半年の“無給時代”を体験したころ、劇場預かりだった「コント赤信号」が大ブレイクし、芸能事務所へと所属することに。その後釜として抜てきされたのが肥後さん。ようやくギャラも出るようになり、晴れて“プロの芸人”に……。

 

「ところが、またデザイン事務所のときみたいに『どうなんだろうな、コレって?』なんてことを考えるようになってきて……。毎日決まった時間に劇場に行って、ネタこそ変えてはいたけど、同じことばかりやって……僕って基本は飽き性なのかもしれませんね。結局は『もう辞めよう!』ってことになっちゃった(笑)。

 

またもやそのときの気分と勢いで劇場を辞めてしまう。だが、肥後さんは生来の強運の持ち主なのだろうか。辞めてしばらくブラブラしていたときに「コント赤信号」の渡辺正行さんと新宿で偶然出会い、ちょうどそのとき渡辺さんが主催していた「ラママ新人コント大会」の第一回目に出演しないか、と誘われたそうだ。まだお笑いの劇場が一般的ではなかった時代、 “新人がライブをできる場”は貴重だった。

 

「もう『出ます出ます!』と二つ返事で応じましたよ。でも、勢いのわりにはしばらくすると、すっかり忘れちゃっていまして……(笑)。そんなある日、渡辺さんから『いよいよ来週だぞ!』という電話が入った。『えー!』って感じで、周囲の芸人の知り合いに焦って電話して、連絡が取れたのが寺門と上島と南部さん(=南部虎弾・現『電撃ネットワーク』)だった」

画像:2枚目

■肥後さんの知られざる“リーダー論”

 

1985年。こうやって、言葉は悪いが“即興的なつじつま合わせ”で「ダチョウ倶楽部」は、その産声をあげた──結成当初は「ぬるっと始まって、たまたまウケたから次もやろうか……」程度の軽い見通しだったのだそう。

 

「僕がリーダーに選ばれた理由だって、『一番背が高かったから』、これオンリー(笑)。あのころのコントグループは、『ドリフターズ』にしても『赤信号』にしても、いかりや(長介)さんや渡辺さんといった“一番デカい人”がリーダーだったんで。

 

自分がリーダーに向いている性格だ、なんて一度も感じたことはないですよ。長い間やっているうちに、自然とそういう風になってしまったというか……」

 

「最近いろんなインタビューで『リーダー論』みたいなことをよく聞かれたりもするんだけど、正直困っちゃうよね」と肥後さん。自ら手を挙げてリーダーになったわけではないので、それはそうだろうと思う。だが、それでもあえて聞きたい、肥後さんが考える“リーダー像”について。

画像:3枚目

「あえて言うなら、『リーダーとはその場の空気を良くする空気清浄機のようなもの』ってことかな? その代わり、自分のフィルターは真っ黒なんだけどさ(笑)。

 

僕の見てきた限りでは、ぐいぐい押しまくっちゃうタイプのリーダーからは、あまり良い結果が生まれないと思う。自分なら、周りを自由にさせておく感じに見せかけて……汚い言い方だけど、会社に置き換えて言うなら『社員を利用する』。できる人がいれば、その人にすべて丸投げ、お任せして、僕はそれに集中しやすい環境を作っていく、あるいは謝る(笑)。いわゆる『ケツ持ち』ですね」

 

≫≫≫80を過ぎたらメンバーの遺影を持って熱湯風呂

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