連載
名刺を捨てた男 #013 お笑い芸人・肥後克広 02/04

芸人の出発点は渋谷のストリップ小屋だった

■楽観的? 無鉄砲?? 肥後さんの就職観

 

「“次”なんて何も決まっていなかったし、そんなことは考えてもいなかった」肥後さんは、再び故郷の沖縄へ……。ここで一つ、ある単純な疑問が我々の脳裏によぎる。

 

果たして、今どきの若者たちは「“次”が決まってもいない」状況で、こうも簡単に会社を辞め、「上京と帰郷」を繰り返すことができるのだろうか? もっと“慎重”なのではなかろうか……?

 

「僕の場合は出発点が沖縄じゃないですか。あのころの沖縄は不景気で、どこどこの会社に叔父がいるから的なコネがなければ就職ができない時代だった。逆の見方をすれば、コネさえあったら東京で失敗しても『沖縄に帰っちゃえばいいや』と開き直れるわけです。

 

まあ、沖縄人の気質だとか持って生まれた自分の性格っていうのもあるとは思うけど……。そもそも“正業がありながら別の道を考える”なんて器用な真似、僕にはできないから(笑)」

 

すごろくに例えるところの「振り出し」に戻った肥後さんを迎えてくれた沖縄は、まだ変わってはいなかった。「変わっていなかった」からこそ、「もうちょっといけるぞ!」と直感したという。

画像:2枚目

■思い立ったら即アクション!

 

あと一度ぐらい失敗しても、またキーホルダーを作ればいいし、親戚の誰だかを頼って、どこかに就職すればいい……よし! 今度は、前から好きだった「お笑い芸人」になってみよう!! とは言っても、どうやってなればいいの? ええい! じゃあ、とりあえずは東京に行っちゃえ!!──凄まじいまでの行動力である。

 

「一念発起というよりは、旅の恥はかき捨てといったお気楽な気持ちだった。唯一の拠りどころは『渥美清さんや萩本欽一さんが下積み時代に浅草の『ロック座』で修業をしていた』と書いてあった一冊の本だけ。しかし、いかんせん情報が古すぎた。

 

僕が辿り着いた浅草は、すでにさびれきっていて……『ロック座』の周辺はゾンビみたいな人しか歩いていなかった(笑)。なので、居候先の武蔵小杉から東横線一本で行ける渋谷にある『渋谷道頓堀劇場』というストリップ小屋に押しかけてみたんです」

画像:3枚目

■丁稚奉公も苦じゃなかった!?

 

当時の「渋谷道頓堀劇場」には、漫才ブームですでに“お茶の間の人気者”となりつつあった「コント赤信号」も出入りしていたと聞く。そんな、「ロック座」よりは比較的活気のある新天地にアポなしで乗り込んだ肥後さんは、いきなり「芸人になりたいんです!」と支配人に頭を下げた。

 

「普通は門前払いだよね(笑)。でも、幸運なことに『ギャラは出ないけど、遊びには来てもいいよ』と言ってもらえて……。

 

最初はず~っと楽屋にいるだけですよ。そりゃあ、居心地の悪さもなくはなかったけど、『とにかく体を動かす』ってことだけは心がけていた。誰かが用事を言いつけられて外出するときは付いていくとか、掃除していたら一緒にやるとか……。周囲がバタバタしているのに、一人だけボーッとしているのって、逆に根性がいるじゃないですか。だったら、みんなに合わせてバタバタしているほうが気もラクだし」

 

そうして気を回しているうちに周囲から「舞台の袖で観ていたら?」「舞台に出ちゃえば?」と声をかけられるようになったそう。肥後さんにその意識はなかったのかもしれないが、雑用を率先してこなす姿が、周囲には“一生懸命”に映っていたのではなかろうか。

 

「不思議なことにお金はどうにかなっていたんですよ。近所のスーパーに買い物に行かされたとき『アンタのぶんも買ってきなよ』だとか『ツリはいらないから』だとか『一緒にラーメン食べに行く?』みたいに……。バイトする必要もなかったし、多少の貯金さえできちゃった(笑)」

 

≫≫≫無休時代を経て、なんとなく「ダチョウ倶楽部」誕生

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