連載
名刺を捨てた男 #013 お笑い芸人・肥後克広 01/04

自動車学校を“卒業”後、仕事のアテもないまま思い立って上京

■入社早々、“育児担当”に

 

今なお、お笑い界の第一線で活躍する「ダチョウ倶楽部」のリーダーとして、現役バリバリに身体を張る肥後克広さん、53歳。

 

沖縄県那覇市に生まれ、1972年にアメリカから返還されて、まだ喧噪のさなかにあった“日本最南端の地”で思春期を過ごした肥後さんは、地元の工業高校を卒業後、母から受けた「(電車がない沖縄で)車を運転できたら、アンタ! 一生食えるサー! タクシーでもバスでもトラックでも、なんでも運転して稼げるサー」とのアドバイスに従い、「自動車学校」へと“進学”。

 

ところがいざ通ってみると、“無遅刻無欠勤”が祟って(?)か、たった3カ月でアッサリ“卒業”……。「やることねえなぁ~」と困り果てていたところ、不意に東京行きを決断したという。

 

「当時、僕と同世代の従兄弟が川崎に住んでいたので、仕事も決まってないのに、いきなりその彼の家に押しかけたの。そこで『アルバイトニュース』を調べて、コンサートのPA業務をやっている会社に就職しました。

 

夫婦2人で経営しているアットホームな会社だった。ダンナが社長で奥さんが専務……みたいな。で、入社してすぐ奥さんが妊娠しちゃって育児休暇を取ることになったんだけど、僕があまりに使えなかったので、結局は奥さんが職場に出て、僕が代わりに育児をするという、よく分からない事態になっちゃった(笑)」

画像:2枚目

■退職→故郷の沖縄へ→再度上京

 

毎朝出社して、雑用を終えたらそのまま社長宅に直行し育児に励む……そういう不思議な日々は、約半年で破綻する。理由は単純に「居づらい雰囲気になってきた」から、なのだそう。

 

「真っ当な仕事をさせてもらえない、という屈辱感は微塵もなかった。むしろ、子どもの世話をするだけでお金がもらえるなんてラッキー……くらいに考えていた。でも、さすがに数カ月もやっていたら『なんのためにオマエを入れたんだ?』って空気になってきて……。それが嫌で会社を辞め、沖縄に帰っちゃいました」

 

帰ってからしばらくは、実家で姉がやっていた「キーホルダーを作る仕事」を手伝っていたらしい。地道にせっせと星の砂を小瓶に詰めたりしながら、肥後さんの頭にはこんな想いがよぎり始めた。「何かがちょっと違うな……」。

 

「また性懲りもなく、何も決まっていないくせして川崎の従兄弟の家に押しかけたんです。そこでまた『アルバイトニュース』を調べて(笑)、今度は看板とかのグラフィックデザインを請け負う、デザイナーが2人しかいない小さなデザイン事務所に入社しました。工業高校ではデザイン科だったからそれを活かさない手はないな、と。

 

ただ、やはり半年ほどで……かな? 突如『この仕事でもない……』ってことに気がついたわけです。たしかに、デザインという好きな仕事ではあったんですが、なかなか楽しくなかった(笑)。ちょっと妙な言い回しに聞こえるかもしれないけど、『なかなか楽しくなかった』って表現がピッタリな環境だった」

画像:3枚目

職場の人間関係や給与に不満があったわけではない。居心地の良さが逆に漠然とした「不安」をかきたてたのかも、と肥後さんは語る。

 

「あと1カ月頑張ったらボーナスも出るのに……って時期に、辞表を提出しました。もちろん“次”は何も決まっていなかった。我慢できなかった、というよりは面倒臭くなった、意味が分からなくなったという感じで……」

 

≫≫≫次の仕事を何にするかなんて、これっぽっちも考えていなかった

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