連載
名刺を捨てた男 #012 格闘家・角田信朗 03/04

ファイターとディレクターの2つの顔

■サラリーマン格闘家からプロ格闘家へ

 

いつの間にか石井館長に背中を押され、プロの総合格闘家への道を歩み始めることになった角田さん。

 

「作家の夢枕獏さんが、僕のことを『自分の感情が試合に投影される選手だ』とおっしゃったらしい。格闘技ファンの方々の多くは、サッカーや野球と違って、自分たちができないことをやっているわれわれにシンパシーを感じたり、感情移入できるわけです。当時はピンと来なかったんですが、感情移入しやすい、観客が盛り上げることができる選手という評価だったんです」

 

プロにとって不可欠な資質を持っているということだろう。だが、「リングス」に参戦した角田さんに会社は待ったをかけた。

 

「武道家であることは応援してきたが、“プロレス”をやるのなら話は違う」という。当然だろう。会社から給料をもらい、プロとしてファイトマネーをもらう、都合よく会社を休むでは話にならない。「リングス」は人気コンテンツに成長しはじめ、徐々に格闘家としての人生が開きつつあった。どっちつかずの生活を続けるなかで、1992年6月に敗戦の悔しさから「戦うサラリーマンを返上します。会社辞めます」と発作的に宣言。

 

「WOWOWでその様子がしっかりと放送されちゃって(笑)。 しかも社長も社員も見ていたために、前言撤回もできず。ただブラウン管越しの退職願になってしまいましたが、本当に温かく送り出していただきました」

 

もしかすると計算づくだったのか。とはいえ二足のわらじを脱ぎ捨て、プロの格闘家、角田信朗が誕生したのである。

画像:2枚目

■実務能力を買われ、K-1のディレクターに

 

「石井館長の能力は空手だけではありませんでした。『K-1』という世界にも通用する総合格闘技の基盤を作り、ブランド化した手腕はさすがだと思います」

 

K-1の第1回大会が開催されたのは1993年、角田さんは30歳と格闘家としてこれからが嘱望される立場。ただし、格闘家のみならず、石井館長の右腕として運営にも携わり、ファイターとディレクター、ふたつの顔を持つことになった。またもや二足のワラジである。

 

「K-1には海外の選手が多く参戦したこともあり、招聘担当を任されまして……。まだアナログの時代でしたし、山のような契約書類と格闘していました。ただ、2年間のサラリーマン経験がこのときに大いに役立つんです。本当に、無駄な経験はないと思い知りました」

 

なかでも角田さんの思い出に残る“招聘”があるという。

 

画像:3枚目

■選手誘致の“ウルトラC”を遂行

 

「タイの選手が試合の1週間前だというのに、興行ビザがおりず日本に来れないということがありました。でも彼がいないと試合が成り立たない。そこで石井館長の一言が『角田、何とかしろ』。

 

『えーーーーーーーーーーーーッ』

 

それでたった一人でワープロと実印と住民票、会社の決算書に登記簿、会社のレターヘッドととにかく必要と思われるすべての書類を持ってタイに飛びました。もしこれが、イマドキの子ならとっくにとんずらですわ」

 

1週間で興行ビザ取得はありえない。当然ながらタイの日本大使館では門前払いである。

 

「ダメはダメなり。まずホテルの自室の冷蔵庫にあるビールをすべて飲んで、座禅組んで、必死に考えました。

 

そこで思いついたのが“軍を使う”こと。彼はタイの国技・ムエタイの選手で、それを運営しているのは陸軍。つまりムエタイ選手は陸軍所属なわけです。一般民間人ならビザはおりなくても、陸軍の後ろ盾があればいけるとひらめいた。そこで陸軍の公式の身元保証書を手に入れて、書類を揃えて、最後に僕の辞表まで並べて担当者のところに行きました」

 

結果は「二度と(この作戦が)まかり通ると思うな」という担当者のお言葉と興行ビザの発給であった。

 

「号泣しましたよ。でも石井館長からは『やればできるじゃん。ごくろーさん。何食べてもいいよ』(笑) なんですかねぇ(笑)」

 

K-1参戦でサラリーマンを辞したはずが、角田さんの“なんでもできてしまう能力”がどうやら事務手腕も発揮させてしまったようだ。

 

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