連載
名刺を捨てた男 #012 格闘家・角田信朗 02/04

空手家よりも向いていたプロの道

■支部長としての活動は2年で終了

 

一流企業からの誘いは断り、せっかく取得した教員免許を活かすこともなく、正道会館神戸支部の支部長になることを決断した角田さんに両親は烈火のごとく怒ったという。

 

「親子の縁を切ると言われました。援助ももちろんありません。そんななかで大阪から神戸の三ノ宮に向かいました」

 

正道会館の評判が上々だったこともあり、200人ほどの門下生はすぐに集まったという。

 

「でも自分こそが強くなりたいと思っている人間に、人を育てようという考えはない。練習相手がいなくてフラストレーションも溜まる……。レクリエーション気分でやってきた相手に『ケンカの要領でかかってこい』って言ったって、向こうはファイターじゃないわけですから。分かってなかったですね。片っ端から倒していったら、あっという間にそういう門下生はいなくなりましたから(笑)」

 

そんな状況を目にした石井館長からは「道場経営の損益分岐点とか生産性とか、営業しとんのかとか、昨日今日、大学を卒業したばかりの若造には理解できない話ばかりしてくる。つまり館長は“道場経営をどう考えているのか”ということを言いたかったのですが、当時の僕には言ってることがわからず、毎回『はぁ~?』って感じでした」と、当時を振り返る。

画像:2枚目

■戦うサラリーマン、日々書類と格闘する。

 

不慣れな経営でも、スパルタ教育でも、門下生は常に300人ほどはいたそうだ。ただし、諸事情から、三ノ宮の道場は2年で撤退と悔しさを味わうことになる。

 

このころの話は、著書『悔しかったらやってみぃ!!』(幻冬舎)に詳しいので、ご一読を。ちなみにこの本、一言一句、すべて角田さんの手によるもの。これを読むと文筆能力の高さを知ることができる。

 

「日雇い、ラーメン屋、健康ランドの用心棒、店舗改装……新たに道場を開設するために、また生きるために、お金になる仕事なら危険を厭わずになんでもしました。もちろん、ときどき若かりし日に手放した、あったはずの“就職先”を悔やんだりもしましたね」

 

そして20代最後の年となった1989年に声がかかる。

 

「先輩が会社を立ち上げることになり、『そろそろ背広を着て働かないか』と声をかけてくれたんです」

 

空手で身を立てようとする角田さんを応援すべく、残業等はなしといった条件を用意してくれていた。

 

画像:3枚目

■シュルトよりバンナ、記録よりも記憶の選手

 

仕事は当初、携帯電話の販売だったはずだった。今でこそ携帯電話の普及率は90%を超えているが、当時は1%にも満たないことを思えば、うまくいくはずもない。

 

「売れるはずないでしょ。そうこうしているうちに気づいたら宅地建物取引業、次いで海外のスーパーカー販売を始めていたんです」

 

書類を書かされてばかりの日々のなかでも、空手への情熱を失うことはなかった。そして転機がやってくる。1991年12月に開催された「リングス」での試合だ。石井館長からの命により参戦することになったのである。

 

「『リングス』が求めているのはプロの格闘家で、自分はアマチュアの空手家。ですから当初は完璧に他人事ですよ。でも石井館長はじめ、多くの方が『角田、プロ向きなのはオマエや』と言う。それで出場することになってしまいました」

 

角田さん曰く、プロの格闘家とは「毎回、鬼のように強いセーム・シュルトより、負けるも勝つもノックアウトのジェロム・レ・バンナ。成績以上にワクワクさせるものを持っている。記録よりも記憶の人ですね」

 

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