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Vol.13 井上康生・人の為に自分の為に
(2003.06.27)
偉大なる業績を残したあのスポーツ選手があの瞬間、なぜその言葉を発したのか。フィールドは違えども、闘う男に共通した“何か”、きっとあなたの人生や仕事にも役立つはず。 |
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偶然、井上康生選
手とエレベーターを乗り合わせたことがある。昨年のアジア大会直前に都内のホテルで結団式が行われたときのことだ。エレベーターが1階に着くと、井上選手
は左端に寄って、開いた扉のへりを軽く押さえ、乗っていた人たちに「どうぞ先に降りてください」とさりげない感じで促した。一瞬の出来事だったが、あまり
にも自然な行動ゆえに、彼の人柄がそこに凝縮されているように思えた。礼儀正しくて気持ちのいい青年。あのとき乗り合わせた人たちは、皆、そう感じていた
に違いない。
シドニー五輪のときは観客席から彼の柔道を応援していた。他国の選手が組み合っ
たまま押したり引いたりして相手の出方を慎重に待ち、僅差の判定で勝負を決めて勝ちあがっているのに比べて、井上選手の柔道は終始豪快だった。胸のすくよ
うな一本勝ちが続き、場内からは国を問わず、井上の柔道に大きな拍手が送られていた。決勝の内股は目にも止まらない早さでかかったが、同時に相手が畳にこ
ろがっていく姿がスローモーションのように、しっかりと目に焼きついた。
静寂の後の、大歓声。すべての感情を両手のこぶしに込めて、高く天井に突き上げた彼は、表彰式では大好きだった亡き母親の遺影を掲げて、勝利を共に味わ
い、涙した。その遺影の思いがけない大きさに、事情を知らぬ他国の観客は少しばかり驚いた後、「彼は勝利を今は亡き母親に捧げているのです」という説明を
聞くと、「それはすばらしいこと!だって彼は国や名誉のためでなくて、愛するおかあさんのために戦ったのでしょう」、そう言って再び温かい拍手を贈った。
「自然と誰かのためのようになってしまうけど、父には『お前はそういう宿命を背負って立つ男なんだ』と言われたんです。そう言われた時も素直に、そうなんだなと思った。別に苦にもならないし、気負うわけでもない」。
病気で入院している恩師の奥様を励ますために。自分のことを心配しながら亡くなった母親のために。今回の世界選手権大阪大会では、1歳の姪に見せたい
と、すばらしい柔道で3連覇を実現してみせた。畳の上では研ぎ澄まされた強者も、畳をおりれば柔和な笑みを浮かべたやさしい一人の青年に戻る。そんな彼の
やさしさを一番知っている父親は、時にそのやさしさゆえの迷いや甘さを追い払おうと容赦なく彼を殴り、また別の時には人を想う気持ちを己の力にするように
と、諭しもする。五輪金メダリストになっても父親は今も井上選手にとって、かけがえのない師匠なのである。
井上選手は、人のために戦うことも引き受けつつ、それだけではない次のような境地にたどりついたことで、金メダルを得ることができた。
「金メダルを期待されるプレッシャーの中で、誰のためにやってんだろうと。そう考えたら、自分が好きでやってるだけだと思ったんです。世話になった
方のためという思いもあるけど、何であんな苦しい練習をしたかと言えば、自分のためじゃないかって。せっかくの五輪でプレッシャーなんか感じて自分の力を
出せなかったら、それほどもったいないことはない」(Number2000年10月23日号より)
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